父暁仙は明治28年、農家の三男として生まれ、
12歳の時に大聖寺の小僧になりました。
大正10年、26歳で師匠の跡を継ぎ、住職就任の日、本堂がもらい火で全焼してしまうのです。
頃は大正バブルの下り坂、間もなくバブルが崩壊し、米価の暴落もあり、借金を余儀なくされます。
寺の田畑を売り払った上、銀行から高利の借金をして、返済に追われる毎日が続き、15年をかけて当時で15万円という多額の借金を返済しました。
「火は粗末にするな」「火事の覚悟をしておけ」「風吹きに遠出するな」「水はたやさぬようにしろ」「怪我と災は恥と思へ」と、火事についての注意を喚起する言葉がいくつか見られます。
また、「たんと儲けてつかへ」「借りては使うな」という借金に関する小言もあります。
父の苦労は続き、出身大学に勤務することになった昭和14年、日中戦争の最中に戦死者供養の際に、中国北部にいた弟を訪ね、極寒の中での無理がたたったのか心臓を患い、
帰国後は療養の日々を送りました。そして、昭和16年、47年の生涯を終えました。
「泣きごとは必ず云うな」とありますが、何かと苦労の多かった父は、この言葉を自分自身に向けていたのかも知れません。
父の死後、私は22歳で父の跡を継いで住職になり、私の人生は小言の一言一言に随分と助けられてきたものです。
数ある小言の中で「恩は遠くからかくせ」とは、45の小言の中の目玉と言える言葉です。
世間に出回っている「親父の小言」は「恩は遠くから返せ」となっていますが、もともとは「かくせ」、つまり人に何か施しをしても自慢するな、お返しを求めるな、陰徳を積めという意味が込められています。これも常に私の指針となってきました。
父が亡くなる3日前、父の枕元に呼ばれました。「おまえは大人になったら偉くならなくてもいい。立派だと言われる人になるよう心掛けなさい。」
私に対する最期の言葉は、遺言になりました。
当時戦争に役立つ人になれ。出世しろと言われていたので、「立派だと言われるような人になれ」と言われて戸惑いました。
小言には「身の出世を願へ」とありますが、世間で言うところの出世と、もう一つ意味があるように思われます。
何かに打ち込むことで、社会の役に立つ人が大勢います。魚屋の大将、野菜作りの博士、壁塗りの名人、この人たちは名こそ上げませんが、出世を遂げた偉い人たちでもあります。
父が残した「立派な人」というのは、このような方を言ったのではなかったのか、と自問自答することがしばしばです。
今は、テレビを見ながら小言を言っても聞かない時代になりました。親父にしても小言をいう間もないのではないかと寂しい気持ちです。